高森顕徹の『なぜ生きる』を読んでも生きる意味は分からなかった。私が考える生きる意味の結論

こんにちは、アリスです。

「なぜ生きる」という2001年に発売された有名な本があります。私がなぜ生きるを初めて読んだのは、高校生の時でした。

ただし、結論として、この本によって生きる意味はわかりませんでした。

本からは「よくぞ人間に生まれたものぞ”の生命の歓喜を得ること」が生きる意味ということは読み取れます。しかし、ではどうやったら声明の歓喜を得られるかは分からずじまいでした。結局、各自で考えるしかないということなのだと思います。

スポンサーリンク

高森顕徹は生命の歓喜を得ている?

少なくとも、私は生きる意味の明確な根拠がわかりませんでした。生きる意味を知りたくて、これまでに5度は読んだと思います。

しかし、どうやったら生命の歓喜を得られるのかは、ついにわからずじまいでした。

本には、生きる意味はただ一つと書かれており、それは全ての人間に共通する理由と書いてあります。

その根拠は親鸞聖人です。親鸞聖人は生きる意味を見出し、生命の歓喜を得た人物として知られています。

ただ、どうすれば生命の歓喜が得られるのかの途中過程はかなをあいまいであり、答えはのっていません。こうなると、作者の高森顕徹が、本当に生命の歓喜を得ているのか信じられなくなります。

スポンサーリンク

生きる意味は必ずある

生きる意味なんてない。そんなの人それぞれだ。という人がいますが、それは間違っていると本には書かれています。

私自身もそれには同意します。生きる意味はあると思います。哲学の領域になりますが、こういった普遍的な内容の問題提起をすることはとても重要です。海外の偉大な哲学者達も、生きる意味を考えてきました。

私という人間が存在することは本当に奇跡です。それは本にも幾度となく書かれています。

生きる目的は必ずあります。ただそれが何かは現段階ではわかっていません。

一つ言えるのは、今の世の中は目的を考えずどう生きるかばかり考えている人が多いということです。ほとんどの人が何をして生きるか、手段ばかり考えています。

大切なのは目的です。ネットでも生きる意味を議論していたりするが、結論が軽率なものが本当に多いです。なぜなら、死がせまれば容易にくずれさる意見ばかりだからです。

お金持ちになりたい。世界一周旅行をしたい。地球平和に貢献したい。人類のために貢献したい。それらは生きる目的になるのでしょうか?

もし明日、あなたが死ぬとしたら、その時に上に書いたことをするでしょうか。そうなると今度は、家族と一緒に過ごす。大事な人と一緒にいる。と答える人が増えそうな気がします。

でも死ぬときは一人です。死ぬ直前まで一緒にいても、死ぬときは一人旅立たなければなりません。それでもあなたは家族といますか?

小学生のころから死が恐かった

私は、小学校4年生ごろから、死を極度に恐れてきました。印象に残っている記憶が、小学校4年生のときです。

ある夜に、母親とばあちゃんが何か話していて、そのときに自分もすぐ近くにいたのですが、急に死の恐怖にとりつかれ、何かわけのわからないことをしゃべりだしました。

母親は「どうしたん?」と聞いてきました。自分は、そんなことを考えたことが恥ずかしく、最初言い出せませんでしたが、ついに白状して喋りました。

すると母親は笑って、そんなこと考えなくても大丈夫といってくれました。

それでも、それ以来、ずっと死の恐怖にとりつかれています。年に数回〜数十回、急に死の恐怖にとりつかれ、発作がおきたような状態になります。

あのとき笑って安心させてくれた母親も大分前にガンで亡くなってしまいました。なんの親孝行もできず、今なら、もっとネットでいろいろ調べて、お金も自分が出せるようになったし、いい治療を受けさせてあげられたかもしれないという後悔が残っています。永遠に残ると思います。

スポンサーリンク

なぜ生きるの本に対して思うこと

なぜ生きるの本からは、生きる意味の結論はわかりませんでした。結局それを書けないということが、本音ではないのでしょうか。つまり、わかっていないということです。
どうすれば、この世に生まれた生命の歓喜を得られるのかにはまったく言及していません。その答えを述べることからあえて避けていることが文章から感じられました。

ただし、この本に書かれている話は、本当にいい話ですし、生きる意味を考えるうえで、とても参考になると思います。

自分は、実際この本を読んでそう思いました。何度も読む価値がある本ですし、実際何度も読みました。でもこのタイトルをつけたのであれば、生きる意味の根拠、どうやったらそれを体得できるのかも記載してほしかったです。

ところで、なぜ生きる2という本が、遅れること10年後に出版されました。なぜ生きる2には、生命の歓喜を得る手段がかかれているらしいです。

なぜ今になってなのか?という理由が、1万年堂出版のホームページに記載がありました。「なぜ生きるの出版後、読者から、ぜひ“大悲の願船に乗る経路を問う”声が多く寄せられたが、衆務に追われて今日に至ったことを、読者諸賢にお詫びしなければならない。」

しかし、そんな言い訳をするのはおかしいと思います。優先順位がおかしいです。

日々の仕事?に追われて大事なことを見落としているのは、作者高森さん自身なのではないでしょうか?

明日死ぬかもしれない状況、そして現に毎日たくさんの人が亡くなっていることを考えたら、一刻を争うことなのは、簡単に理解できることです。

自分は、生きる意味に1も2もないと思います。わかっているなら1ですべて説明できたはずですし、説明しなければならなかったと思います。

奥が深く、誰しもが理解できるものではなく、また説明が難しいのなら、せめてそういうことの記載をしてほしい。(まあ普通はそんなこと記載するはずないでしょうが・・・)

生きる意味の現時点での結論

私が思う生きる意味についての考えを書きたいと思います。
これは、あくまで自分の意見なので、正しいか間違っているのかもわかりません。ただ、現時点では、これで自分を納得させています。

生きると死ぬは隣り合わせであります。生きているときに、死の恐怖をわかったうえで、死を受け入れることができる。これが生きる意味を知るいうことなのではないでしょうか。

死んだあとは何も考えることができなくなりますが、死んだから終わりというのは違うのではないかと思います。それは決して死後の世界があるという意味ではありません。

死んだ人が燃やされ、埋葬されれば、地球に還るという意味で、終わりではないということです。どういうことかというと、土、水、ほこりとなり、地球の一部になるということです。意識はないけど、地球の一部として生きているということです。

それらをもっと深く理解できれば、死を受け入れることができるのではないかと思っています。そう、死は怖くない。死を恐れる必要はないのです。

赤ちゃんになるまえ、あなたはどこにいましたか?地球の一部だったはずです。逆にたどってみてください。赤ちゃん→精子・卵巣→水、食べ物→土、空気です。

元をだどれば、全部地球にかえっていく、これは事実としてそのように思っています。輪廻に近い考え方かもしれませんが、そういう風に、理解できれば死を受け入れられるかもしれない。そのように今の自分は思っています。

しかし、現時点ではその考えも完全に自分の中で消化できてはいません。それが私の本音です。一つの考えとして参考にしていただければ幸いです。

スポンサーリンク
関連記事と広告